園からのお知らせ

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認定こども園捜真幼稚園2022年4月園だより

『助けはどこから』

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」(旧約聖書 詩編121編1-2節)

春になりました。寒さが苦手な「薄皮マン」の私にとって、うれしい季節です。春の温かい日差しの中で、こどもたちは新たな生活を始めます。入園式や入学式などでは「期待に胸を膨らませて」とか「明るい未来に向かって」というような前向きの表現が使われることが少なくありません。
しかし、今、私たちの生きている世界を冷静に見るとき、コロナ禍やウクライナでの戦争のゆえに、天気で言えば、どんよりとした重苦しい曇り空が世界中を覆っています。そして、いつ「晴れ」の予報が出るのか見当がつきません。
詩編121編は二千数百年前に書かれた、巡礼の歌です。聖地エルサレムに向かって旅をする途上、困難な「山々」を越えていかねばなりません。それは野獣と盗賊の待ち構えている「山々」であって、旅をすることは文字通り“命がけ”でした。
わたしたちの人生を旅に例えるならば、私たちも「山々」に象徴される災いや困難、さらには不条理としか言いようのないことに出会います。そのようなときに、「神様、どうして?」と問いたくなりますが、納得のいく明確な答えは見つかりません。
しかし、この詩編の作者は宣言します。「わたしの助けは来る。天地を造られた主(神様のこと)のもとから」と。確かに、この世界には、さまざまな困難や苦難があるけれど、この世界はわけのわからぬ運命のような力に操られているのではないのだというのです。「助け」は、苦難を取り除いてくださるという仕方で与えられることもあります。しかし、苦難の中で、神様が私たちを孤独に放り出すことはなさらず、共にいてくださるという仕方で与えられることもあるのです。
普通、私たちは「幸い」というものを、自分にとってものごとがうまくいくことだと考えます。しかし、聖書の語る「幸い」は違います。たとえ思い通りにならないことがあっても、つまり、痛みや苦しみがあっても、それは、神様が私たちを見捨てたということではない。どのようなことがあっても、むしろ、苦難の中でこそ、神様は共にいてくださる、それを信じることができることが「幸い」なのです。
 さらにこの詩編121編には「(民を)見守る方はまどろむことなく、眠ることもない」(4節)という言葉が記されています。たとえ、わたしたちが神様のことを忘れることがあっても、神様の側ではひとときもわたしたちをお忘れになることなく、愛することをおやめにならないというのです。
 この一年、どのようなことが起こる(happen)のかわかりません。ハプニング(happening)は、コントロールすることができませんが、起こったことをどう受け止めていくかは、私たちが選び取ることができます。「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」と信じて、歩んでいきたいと思います。

理事長 小野慈美

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