園からのお知らせ

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認定こども園捜真幼稚園2021年2月園だより

「苦しみに遭ったのは私には良い事」

「苦しみに遭ったのは、私には良い事でした。あなたの掟を学ぶためでした。」(旧約聖書 詩編119編71節)。この詩の作者の苦しみが何であったのかは、わかりませんが、作者はそれを「良い事でした」と言い切っています。苦しいのに、やせ我慢をして「苦しくない」と言っているのではないし、苦しみそのものを良いと言っているのでもありません。一般論として、「苦しみにも意味があるのだよ」と言うのは正しくありません。苦しみそれ自体は、喜ばしいものではないのです。しかし、自分の具体的な”この苦しみ”の経験について「私には」良いことだったと言っているのです。それは結果的に「あなた(神様)の掟を学ぶ」ことができたからです。苦しみを通して神様が大切なことを知らせて下さったことが良かったというのです。
私たちが好き勝手な生き方をしていても、神様が放っておかれるとしたら、それは逆に恐ろしいことです。例えば、我が子が、お菓子ばかり食べて、きちんと食事をしないのを、親が放置するとしたら、親はその子を愛しているとは言えません。「ちゃんとごはんを食べなさい」と言うでしょう?これは愛の戒めです。
私の長女は、小さい頃、風邪を引くと、よく鼻を詰まらせ辛がっていました。そこで、大きなスポイトを鼻の穴に入れて、詰まった鼻水を吸い出しました。鼻の穴がひりひり痛むからでしょうか、いやがりました。そこで、私が娘の頭を動かないようにおさえている間に、妻が「ごめんね、痛いよね。でも、放っておくと、もっと辛くなるから我慢してね」と言いながら、鼻水を吸い出しました。娘にはただ苦しいだけの経験に感じられたかもしれません。たとえ娘に親のしていることの意図がわからなくても、それは愛から出たことです。
詩編119編71節は聖書の他の訳では、「卑しめられたのは私のために良いことでした」と訳されています。「卑しめられた」とは「低くされた」とも訳せます。高慢を砕かれたということなのかもしれません。高慢を砕かれるために、苦難が必要だった、そしてそれは高慢に気付かずに生きていくことよりも良いことだということです。
でも、どう考えても苦しみの意味がわからない。どう考えても「良い事」とは思えないこともあります。しかし、苦しみの意味を納得できるかどうかということも、決定的に重要なことではないのです。イエス様は、最後の晩餐の席で、弟子たちに言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。イエス様は、今、あなたにも語っておられます。「苦難があることは、あなたがダメな人間だからではない。生きている以上、この世では苦しみがある。ただ、知っていてほしい。あらゆる苦しみを知り尽くしている私が、あなたといつも共にいる。苦しい時こそ、私はあなたの友だ。だから、大丈夫だよ」と。

理事長 小野慈美 (捜真教会 2021/1/10 礼拝メッセージより)
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