認定こども園捜真幼稚園2021年3月園だより
それでも祈る理由
10年前の3月11日。私は保育室で、保護者の方と面談をしていました。地響きのような音と共に揺れはじめ、これは尋常ではないと、あわてて園庭に出ました。預かり保育を受けていた子どもたちも、保育者と共に園庭の真ん中に集まってきました。当時、0歳児を含む乳児もおりましたが、まだ園舎内にいるようでした。私は教会の入口から入り、走って階段を上りましたが、急いでいるのに身体が左右に揺れてしまい、なかなか前に進みませんでした。乳児を抱きかかえた保育者たちが幼稚園側から出てくるのを見ると、ほっとしました。0歳の私の娘を抱いてくださっていた保育者が、「お母さんに抱っこしてもらおうか。」と、その時だけ娘を抱かせてくれました。私の腕の中で、きょとんとした顔をしている娘を見ると、急にこみあげてくるものがありました。子どもたちには、「大丈夫よ、大丈夫。」と言いながらも、まるで船にでも乗っているようなゆらゆらと揺れる地面の上で、一体どうなってしまうのだろうと今までに感じたことのない恐怖の中にいました。やっとの思いでお迎えにいらした保護者の方々の涙を忘れることが出来ません。次の日は、子どもたち全員が防災頭巾を持って礼拝堂に集まるという異例の卒業式となりました。
『悲しいことがあっても』という、こどもさんびかがあります。
「悲しいことがあっても 泣きたい時にも いつもいつも きみのこと 守ってくれるだろう
イエス様がきて イエス様がきて イエス様がきて 守ってくれるだろう」
当時、震災の映像やニュースに触れるたび、この讃美歌が心に流れました。そして祈るたびに、以前、友人から言われた言葉が思い出されました。”祈ってもどうにもならない”その言葉は、正直ショックでした。でもすぐに、彼女がそれほどの悲しみの中にいるのだと思い直しました。祈ってもどうにもならないと思うような、辛く悲しい現実の中にあったのです。
振り返ってみれば、自分自身にも「祈って何が変わるんだ。」と全てを投げ出したくなる時がありました。けれども、聖書の言葉を解き明かしていただき、イエス様という方を知れば知る程、私は祈りたくなりました。辛く悲しい現実は変わらないかもしれない。でも、すべての痛み、悲しみ、貧しさ、孤独を知り尽くされたイエス様が、”わたしは必ずあなたと共にいる。”と、言ってくださっているのです。決して私たちを一人にしない、置き去りにしないと。どのような現実の中にあっても、それでも祈る理由は、イエス様への信頼です。必ず共にいてくださって、分かってくださる方がいる。だからこそ、その方に祈るのです。
今年度はコロナ禍という状況の中、様々な制約がありましたが、日々の園生活の中に子どもたちの笑顔がありました。保護者の皆様の協力がありました。喜び合い励ましあえる関係がありました。これからの心配事をあげればきりがありませんが、必ず共にいてくださる神様により頼み、感謝して歩んでまいりましょう。
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。」 出エジプト記3:12