園からのお知らせ

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認定こども園捜真幼稚園2021年8月園だより

学年懇談会や夏のつどいを終え、7月19日終了礼拝をもって1学期の教育標準時間保育を終えることができました。コロナ禍でも休園せずに保育を続けることができたことを神さまに感謝します。
明日からは夏期保育となります。8月園だより巻頭言をご覧ください。

憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐みを受ける

マタイ5:7

今月の聖句は、山上の垂訓と言われているイエス様のお話です。ガリラヤ湖の風薫る丘で、イエス様のお話を聞きたいと集まってきた多くの人々に語られた、恵みの言葉、真理の言葉です。この場面は、以前教会で毎年のように行っていたキャンプを思い出させてくれます。緑の丘に座って聖書のお話を聴いたり、湖のほとりで友と祈りあったりしたことは私の人生の宝物です。聖書のお話を聴き、またクリスチャンの先輩方のお話を聴き、自分自身の醜さ、傲慢さ、身勝手さが浮き彫りになりました。でも、だからこそ、イエス様を信じて生きていきたい、そこに希望があるとバプテスマ(洗礼)を受ける決心をしました。
 山上の垂訓には、8つの幸福が語られています。イエス様がその幸福を語ったのは、決して幸福ではない、つまり様々な状況下で苦しみ、貧困にあえいでいる人々でした。普通に考えれば、自分が苦しい状況の時に、幸福な人とはどんな人かと語られても、心に響かないのではないかと思ってしまいます。響かないどころか、どうせ自分はと、諦めたり見限ったりしてしまいそうなものです。でもイエス様の語られた言葉は人々の心に深く刻まれ、語り伝えられ、今、聖書の言葉として私たちにも伝えられています。つまり、イエス様の言葉は、苦しんでいる人を生かし、耐えている人を慰め、諦めている人に希望を与えるものだったのです。
 ”憐み”という言葉は、日本語のニュアンスからは”可哀そう”とか、”上から見下ろすような態度”のように聞こえてくるかもしれませんが、そうではありません。聖書で語られる”憐み”とは、人の痛みを共感すること、心を共有するという意味があります。憐み深いとは、まさにイエス様のことです。イエス様は、上から見下ろすように私たちの心を見ている方ではありません。共にいて、私たちの苦しみ、痛みを、ご自分のものとして共有してくださり、私たちの傲慢さ、身勝手さを赦してくださり、赦してくださるだけでなく、希望を与えてくださるお方です。ですが、憐れみ深い人になりなさいと言われると、無理だと思ってしまいませんか。大好きな人だけでなく、受け入れ難い人に対しても”痛みを分かち合い、不快を与えられたことを赦し、さわやかにほほえむ”ことなどできるものかと、全く自信が持てません。でも、イエス様はおっしゃいます。憐み深くありなさい。そこに幸せがあるのです。そして、その人たちは憐みを受けるのだと約束してくださいました。
 教会キャンプの経験の中では、土砂降りの時も嵐の時もありました。大きなブルーシートを敷いてみんなで食事ができず、雨に濡れながらひとつひとつのバンガローに食事を運んだこともありました。予定していたことができない、無理だと悩むことも度々ありました。でも、その中で私たちが常に感じていたことは、”まず神様が先に立って進んでくださっている”ということです。そして、その神様に従っていこうという思いが与えられました。どんなに困ったことがあっても、神様に従ってそれを乗り越えた時、心に平安が与えられました。
今月与えられた聖句も同じことが言えるのではないでしょうか。まず神様が、私たちの痛みを分かってくださり、赦し、愛してくださいました。一度だけではありません。何度も何度も赦され、愛される中で、親しい交わりを与えられ、その神様に従っていきたいと思うのです。
厳しい暑さが予想される夏休みですが、いつも共にいてくださる神様を感じながら過ごせますようにと祈ります。

主幹保育教諭 黒坂 綾子
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