認定こども園捜真幼稚園2024年3月園だより
「主よ、あなたの道をお教えください」(旧約聖書 詩篇86:11)
「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」。これは、室町時代の僧侶であった一休禅師が作ったと言われる歌で、「一つの山に多くの登山口があるように、宗教という道はいろいろあっても、最終的に到達するところは同じだよ」という意味だそうです。
しかし、宗教は山登りと同じではありません。富士登山ならば、異なるルートで登っても、同じ山頂にたどり着くことを確かめることができますが、宗教の場合は、その道が本当に山頂につながっているかどうかは確かめられません。ですから、この歌は、「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見る(の)かな?」という疑問形で終わらざるを得ないのです。
特定の宗教を信じていなくても、占いや方角や六曜などを気にするのも、一種の信仰です。また、神的なものは存在しないという「無神論」という立場があります。しかし、神が存在しないことを証明することはできませんから、無神論とは「神的なものは存在しないと信じること」であり、これも裏返しの「信仰」です。つまり、人は、自覚的であろうとなかろうと、必ず信仰をもっているということができるでしょう。
では、数ある「道」の中で、キリスト教という「道」の特徴は何でしょうか。それは、高嶺におられる神様が麓まで下りてきてくださったということです。言うまでもなく、降りてきてくださったのがイエス・キリストです。イエス・キリストは「神が人となったお方」であり、イエス・キリストを知れば、神を知ることができるのだ。これがキリスト教の主張です。もちろん、イエスを「神が人となったお方」だと信じることは信仰ですから、「信じる」という点では他の道と変わりません。
イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。…わたしを見た者は、父(神)を見たのだ。」(ヨハネ14:6、9)と言われました。何と大胆な言葉でしょう。あえて言えば、なんと傲慢な言葉でしょう。イエス様は嘘をついていた、あるいは、誇大妄想だったという可能性はあります。しかし、もし、真実をおっしゃったと信頼できれば、私たちは、安心してこの道を歩んでいくことができます。なぜなら、高嶺(山頂)に到達するかどうか心配しながら登る必要はなくなるからです。
2000年前に地上を歩まれたイエス様は、十字架で亡くなられた後、復活し、弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されました。イエス様と歩む道は固定した道路とは違います。一人ひとりに固有の道です。ときには道をはずれるかもしれません。しかし、その時に「主よ、あなたの道をお教えください」と祈るならば、ちょうど、親切なカーナビがリルートを示してくれるように、イエス様は、はずれた先から、新たな道を示してくださり、共に歩んでくださいます。卒業していく子どもたちの歩みを、イエス様がいつも共にいて導いてくださいますように。
学校法人理事長・捜真バプテスト教会牧師 小野慈美